太平洋戦争戦歴

 昭和十六年十二月八日日本は太平洋戦争へ突入した。奇襲をかけるはずだった真珠湾攻撃は駐米大使の歴史的怠慢と艦隊司令長官南雲中将の失策で奇襲部隊の発艦時間の遅れなどにより、強襲となってしまった。
 この「真珠湾強襲」で約百二十機ほどが失われ、約数ヶ月間機動艦隊としての機能が損なわれた。結果としては宣戦布告後の攻撃となったため、国際的な批判はなかったもののこの戦いの主導権を早くも米国に渡ってしまった。
 翌、昭和十七年四月十八日米国の奇襲が早くも始まった。B17爆撃機による東京初空襲がそれだ。帝都はもとより横浜、名古屋、大阪、神戸、が爆撃を受けた。横須賀軍港にも飛来し偶発的な敵機の反眺爆撃で停泊中の「長門」を小破させ、「陸奥」は艦橋被弾をはじめ機関部を直撃、爆沈。座乗していた連合艦隊司令長官山本五十六大将は爆死してしまう。日本軍の想い描いた真珠湾攻撃をそっくりやり返され、あまつさえ連合艦隊旗艦および首脳を抹殺される大失態にメンツ丸つぶれの陸海軍(特に海軍)は一応飛行機に対しての認識を改めることになり、ここで敵航空戦力撃滅をはかる「ミッドウェー作戦」を実施することになった。しかし…、
  六月六日とりあえずミッドウェーに侵攻した日本艦隊は、ノリの悪さ(作戦の拙さ)も手伝って敵に先手を取られる。極めつけは不用意に突出した第一機動艦隊の空母四隻「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」が悪天候をついて進出してきた米水上打撃部隊の待ち伏せにあい捕捉されてしまったのだ。
 この空母四隻は敵艦隊に包囲されそうになったが、「赤城」「加賀」搭載の20サンチ砲にて巡洋艦以下の中小艦艇を数隻撃沈する戦果を上げたものの後続の敵戦艦からの砲撃により四隻とも大破してしまう。あわや「グローリアス」の二の舞かと思われたが、ようやく駆けつけた「大和」の反撃により敵戦艦一隻を初弾にて轟沈!同一隻、ほか中小艦艇数隻を航行不能に陥れこれを鹵獲した。その中には最新鋭戦艦「アイオワ」級二番艦「ニュージャージー」が含まれ後に艦隊旗艦と判明、敵将ニミッツ元帥以下米太平洋艦隊の首脳陣以下多数を捕虜にした。敵将を生け捕りにしたことで海軍の評価も変わり士気も大いに上がった。 
日本名「ミッドウェー海戦」又の名を「機動艦隊事件」と呼ばれるこの海戦はミッドウェー島の占領には失敗したものの望外の大戦果?だった。まず敵戦艦を鹵獲できたのは不幸中の幸いだった。我が海軍はただちに「ニュージャージー」を呉に回航、徹底的な調査が始まった。
 軍令部ではこの「ニュージャージー」は速力はまずまずだが戦艦としては火力不足と判断。これを「大和」級と同じ四十六サンチ(十八インチ)砲を搭載(可能と判明)することに決定、改造に着手した。奇しくもそれは幻の八八艦隊計画十三号艦の生まれ変わりのようでもあった。
 これに対して、容易に敵艦隊に捕捉された機動艦隊(航空戦力)はあまり役に立たないとの判断を受け、急先鋒だった山本長官が戦死したこともあいまって航空主兵は縮小路線をたどり始めることになる。だが、果敢に反撃した「赤城」「加賀」の戦訓がとりわけ重要視され結論として、

             艦隊決戦のできる空母

 を必要とした。この戦訓に基づいた艦が「翔I」級三番艦「景I」を改造することで第一歩とした。これが後に戦斗空母「戸隠」として昭和十八年六月一日に竣工する。
 それでも航空機の脅威は無視できないため対空艦として駆逐艦「秋月」級、巡洋(鹵獲)艦「新高」が7月末より竣工し始めた。
 これら対空艦がぞくぞく竣工していても被害を無くすことはできず、第一次・二次のガダルカナル航空戦により巡洋戦艦「金剛」空母「蒼龍」「飛龍」沈没「加賀」「翔I」が大破してしまう惨澹たる有り様となった。やがてこれはトラック島撤退の、ひいては航空戦力の衰退の遠因となり、消耗を強いられた日本は攻撃から防衛への転機となった戦いとなった。
 一方米国ではやはりミッドウェーでの戦訓に基づいてか「アイオワ」級を量産、続いて計画中止になりかけた重戦艦「モンタナ」級を復活、建造を開始した。これにより戦艦の建造に拍車がかかり、大型艦建造比率が4割を占めるまでになった。こうして反攻の準備が整った昭和十八年一月米軍はトラック島に大挙来寇してきた。
 当初大本営はラバウル・ニューギニアを先に落とすと判断したためラバウル基地に航空戦力の集中を図っていたためトラック島は比較的手薄だった。
 米軍は物量に物をいわせ、なお航空主兵をおしすすめ艦載機千機による大空襲を敢行した。防空部隊しかなかったトラック島航空隊はこの時壊滅してしまう。雷撃がほぼ不可能な泊地の地形の助けがあったためか手痛い損傷こそはあっても艦艇の沈没はなかった。直ちにラバウルを始め各基地から航空機をかき集め、抵抗を試みるも多勢に無勢、五月にはついにトラック島は陥落してしまう。この直後に先に話した「戸隠」と十三号艦(「出羽」と命名)が竣工した。十月に奪回作戦を試みるがこれは戦力不足が原因で失敗に終わっている。
 この一連のトラック島攻防戦で連合艦隊はあらかた無力化されてしまい。マリアナ諸島のグアム・サイパンは事実上見殺しにされることになる。
 勢いに乗った米軍は続いて昭和十九年十月フィリピンの攻略を開始し、我が国の補給線遮断へ取りかかった。これにはさすがに黙視する事はできず、連合艦隊は戦艦と空母の部隊に分けてこの戦いを挑むことになった。この時敵の兵力は約30万、艦艇総数も二百隻ほどだった。我が連合艦隊の機動艦隊総数と米艦隊の一方面部隊の数が同じだったため、本格的な空母戦として戦史に止めることになるこの戦斗は見事に敵機動艦隊と刺し違えることに成功する。
 そしてもう一つの戦いも同様だった。航空機の援護がなくなった敵上陸部隊に参加可能な戦艦以下全水上艦艇部隊が米艦隊との艦隊決戦がレイテ湾にて発生した。有名な「バトル・オブ・ブリテン」が航空撃滅戦なのに対してこの海戦は「艦隊撃滅戦」呼ばれるほど凄惨な戦いだった。結果としては上陸軍を含めて敵艦隊の撃滅に成功するも、連合艦隊も洋上に浮かんでいた主力艦は大破した「大和」「武蔵」の二艦だけだった。
 事実上壊滅した連合艦隊だが、これに対し巨人米軍はさらなる兵力をわずか3ヶ月で整えてしまった。この最中にサイパンからB−29爆撃機が内地に飛来するようになり頭を抱えることになるが、これも十九試長距離爆撃機「富嶽」の完成により一応の解決を見た。かろうじて本土上空の制空権を維持しているおかげで十一月に入渠した「大和」「武蔵」の両艦の改装工事は突貫作業で進められ、わずか四ヵ月で終了する。
 昭和二十年二月硫黄島の攻防が始まり連合艦隊が稼動できないため次善の策として「富嶽」を投入し敵上陸軍を痛めつけるという戦術に出た。実にこの硫黄島には数百万発の爆弾が降り注ぎ敵味方の区別無く殺傷するというある意味では異常な戦いとも言えた。結局両軍あわせて七万という戦死傷者を数えて硫黄島は守り切ったものの事実上は玉砕した。 これに少し遅れて「超・大和」「武蔵改」は改装を終え、後の「大和特攻」「神風伝説」となり講和の道を開くこととなる。
硫黄島が無力化だけで終わった米軍は更なる物量をもって今度は沖縄に来寇することとなる。兵力実に五十万(沖縄県民のほぼ総数)、参加艦艇も五百隻を超え米軍が伝家の宝刀を抜いた感もありやと言ったところだ。これに対し我が連合艦隊は「超・大和」「武蔵改」「信濃」以下四十一隻でありどうあがいてもこの戦いで玉砕することはまず間違いなかった。本土沿岸防衛のため参加艦艇はわずかに二十五隻、個艦の能力はむしろ最強といえるが二十倍以上の敵に向かっていくことは無謀の一語に尽きた。それでも特攻艦隊は出撃していった。「富嶽」による空からの漸減作戦の効果か航空攻撃もまばらで(といっても百機前後で来襲してくるが)多少損害を出したものの何とか沖縄海域突入に成功する。この後二度にわたり「沖縄近海海戦」が発生、特に第二次のほうは台風の中での艦隊夜襲となり奇跡的に勝利した。国内では元冦以来の「神風」が吹いたともちきりになり、「神風伝説」への信仰が根付くこととなった。またも一掃され少なからぬ恐怖を抱いた米国はこれを契機に講和条約の締結を五月になって決意する双方の国力は疲弊し、我が国としては何とか巨人米国を押し止めることに成功した太平洋の戦いだった。
 日米の戦いが終わって数ヶ月が過ぎた八月、日本の国力が弱り、艦艇がほとんど修理のため出撃できない今が好機と見たのか突如ソ連が宣戦布告し樺太、千島へ侵攻を開始したのだ。さすがに予想していた事態だけに衝撃的ではなかったもののあまりにもその非道ぶりに改めて我が軍に敵意が刷り込まれていった。内地で巡洋艦以上の艦艇で稼動可能だったのは先に修理が完了した「戸隠」一隻だけだった。結果として対米戦では全く活躍の場がなかったのに対して単艦ということもあって一躍注目を浴びた艦艇だった。準備が整うまでの半年以上の戦いにあげた戦果は戦艦の一寿命分とも言わしめたほどだった。それと同時にこの「戸隠」の建造が間違いではないことが証明された。
 なんとか樺太・千島への進出を断念させた我が国とソ連との講和条約が締結されたのは昭和二十二年四月になってからだった。
 
艦隊泊地へ
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