超弩級戦艦「超・大和」戦歴
時は一九四一年十二月八日日本は太平洋戦争に突入した。あたかもそれを待っていたかのごとくこの「大和」は竣工した。航空機優勢となりつつある昨今での竣工だったが半年後のミッドウェー海戦の撤退戦に大破した「赤城」以下四空母の援護のため敵艦隊と砲撃になった。この砲撃戦で敵戦艦1隻を初弾にて轟沈!2隻を撃破1隻を鹵獲する(後の調査で艦隊旗艦と判明)戦果を上げ、早くも真価を発揮した。
この結果海軍の期待をいやが上でも浴びることになるが、その後はトラック島に進出したのみで、戦局の悪化によるトラック島撤退戦に殿として戦ったくらいだった。
航空主兵が顕著になり始めた一九四四年十月「捷壱号作戦」の突撃部隊に編入される。日本海軍のほぼ総数の戦艦部隊がレイテ湾へ向けて進軍したこの戦いは、小沢艦隊が敵機動部隊と刺し違えたことにより空の脅威が無くなり、両軍の全力がレイテ湾にぶつかることになった。正式名は「レイテ湾海戦」凄惨な戦いだったことからまたの名を「艦隊撃滅戦」と呼ばれている。思い描いたような戦斗だが両軍とも被害は激甚で「大和」も自慢の四十六サンチ砲を存分に振るったが、無事ではなく、1,2番砲塔は損傷するも中破程度に止めた。
砲声が止んで洋上にあった主力艦船は両軍通じて「大和」と「武蔵」(大破)の2隻だけだった。
その後難を逃れて呉に帰投した「大和」は改装することになった「武蔵」に主砲を供出するため一旦入渠する。
船体のみは比較的早期に修理できても「信濃」用だった四十六サンチ砲は「出羽」の改装の際供出してしまい砲身の予備が足りず、ここで「大和」の今後の処遇が問題となり軍令部の頭を悩ませることになる。当初は「信濃」のように空母への改装から10サンチ砲を満載させた対空艦や戦況からか解体やむなしとも悲観的な意見まで出た。しかし海軍の象徴たる「大和」を何とかして再生させたいという思いは全海軍に共通するものであった。もはや万策がつきかけたころ、ポスト「大和」級の試製四十五口径五十一サンチ砲が完成し射撃実験を行ったとの知らせが入った。その数八門、データは良好で急遽「大和」にこの試製砲を搭載することを強引に決定する。こうした工事は最優先事項として夜に日を継ぐ突貫工事で進められた。そのころ艦隊撃滅戦で消耗し尽した中、残る有力艦は唯一出撃しなかった「出羽」がはるかシンガポールに健在だったがイギリスの特殊潜航艇によって雷撃、大破着底してしまい。稼動戦艦が無しという由々しき事態に追い込まれた。
これに対し米軍は、五十一口径十六インチ(四十.六サンチ)砲参連装参基九門、三十三ノットを誇る「アイオワ」級をぞくぞく竣工させ、さらに二十八ノットながら「アイオワ」の主砲をもう1基追加して参連装四基十二門とした「大和」級の最大のライバルといわれた「モンタナ」級を六隻就役させている。
これらの新鋭戦艦群が次の艦隊決戦には必ず出てくると見ていた軍部では、「大和」「武蔵」の改装を急がせた。幸いにも本土防空部隊の奮闘によりかろうじて制空権を手にしたためか、各工廠には被害がなく改装工事は3月の末になってようやく完了した。
改装の結果、排水量は二万トン近く増加、機関は出力が増大したものの速力は27ノットのままになっている。主砲は前述の試製四十五口径五十一サンチ砲を連装参基六門に収め、その射程は伍拾弐キロに達した。これを直撃したらあの「大和」ですら無事ではすまされないといわれたこの艦は誰ともなく「超・大和」と呼ばれるようになっていた。
これに間髪入れずに米軍は沖縄へ侵攻した。この沖縄侵攻軍は戦艦二十隻空母二十六隻をはじめ実に艦艇総数弐千隻を数える大軍で、硫黄島は占領できずに無力化だけで終わったためか、その勢いがすさまじく四十二万という空前の兵力となった。
現在内地にて健在な艦船は戦艦「超・大和」航空戦艦「武蔵改」空母「信濃」「天城」「葛城」「阿蘇」「三瓶」以下軽巡五隻駆逐艦三十五隻だったが、搭載機数の関係で二十五隻にしぼっての菊水(沖縄特攻)作戦だった。三千機の航空兵力で襲いかかられたらひとたまりもないため、本土防空戦の守護神十九試長距離爆撃機「富嶽」による空からの漸減作戦が実施された。
功を奏したのか数次の航空攻撃を受けたものの、小破程度にとどめ何とか沖縄突入に成功。半ば上陸軍を人質に取ったような形で沖縄決戦が開始された。
第1次沖縄近海海戦ではまず敵は旧式戦艦部隊(戦艦七隻以下大小艦艇七十八隻)を差し向けてきたが、一方的にアウトレンジ砲撃をして圧勝する。しかしこちらも十四隻にまで艦艇が減少した。今度の戦いで全滅を覚悟した第二次沖縄近海海戦では季節外れの台風の最中、帝国の命運をかけた日本軍にとっては文字通り「神風」の吹き荒れる中(それも夜襲)全艦艇十四隻(空母を含む)で突撃を開始した。
米軍側は最悪の形で決戦に持ち込まれた。まず、航空機の脅威が消え、台風による荒波で巡洋艦以下はまったく役に立たず、LST(揚陸艇)は波にのまれて沈没といった有り様で、結局頼みの綱は戦艦だけとなってしまった。
この海戦では戦果のみならず、日米両国の造船技術の違いを見せた側面があった。
この時点で十四隻対二百数十隻の決闘だが、(後の調査で戦斗に参加できたのはわずかに四十隻足らずだった) 米軍は自慢の電探射撃で砲撃してくるものの荒波にもまれているためか命中率はさっぱりだった(米軍の艦艇は荒天下での運用は考えられていなかった)。これに対して「友鶴事件」「第四艦隊事件」の2大教訓ををはじめ、造船技術の結晶たる「超・大和」は荒天のもとでも安定した凌波性を発揮。砲撃も「最後は人」として光学射撃に偏重していた日本軍の独壇場と化した。命中率は実に五十二%という信じられないような数値をはじき出した。台風一過、満身創痍となった米艦隊はわずかに三十隻ほどの艦艇が浮いているに過ぎなかった。
この海戦の数週間後に講和条約が締結され、太平洋戦争は事実上終結した。終戦後、呉に帰投した「超・大和」は急造部分の改修に入り数年の眠りにつくことになる。そしてこの「大和」はこの後のあらゆる造船技術の礎となり、いかに「大和」を超える艦を作るか苦闘することになる。
大和 年表
1941年 12月16日 竣工
1942年 6月 ミッドウェー海戦にて味方空母救援のため、敵艦隊と砲撃戦になる
1943年 11月 トラック島撤退戦
1944年 10月 レイテ湾艦隊撃滅戦 中破
1944年 12月 呉軍港に帰港後改装に着手
1945年 3月 改装工事終了
1945年 4月 第一次沖縄近海海戦
第二次沖縄近海海戦 小破
1945年 6月 急造部分改修のため入渠